南大門火災

南大門火災:なぜ火は消えなかったのか





廃虚と化した崇礼門(南大門)には出火当時、数十台の消防車と多くの消防隊員が動員され、消火には十分な時間があったかに見えた。しかし、なぜ火は消えなかったのか。
現場を訪れた専門家は11日、初期対応の遅れが原因ではあるが、崇礼門の構造や特徴を理解していなかったことも一因だと指摘した。

◆屋根の建築様式把握せず

 消火作業のため崇礼門の2階部分に進入した消防隊員は煙が出ているだけの状況を見て、火の手はある程度収まったと判断した。
その結果、火が再び広がるのを防ぐことができず、焼け落ちる崇礼門になす術がなかった。
キョンウォン大のパク・ヒョンジュ教授(消防防災工学)は、「消防隊員の話に共通するのは、黄色い煙が出ていたが、赤い炎は見当たらなかった。
火を発見できなかったのは、『積心木』という伝統的な屋根の建築様式を消防隊員が知らなかったためだ」と指摘した。

 崇礼門2階の屋根は伝統的な建築様式だった。瓦の下に補土(石灰質を含む泥の層、30−60センチ)、積心木(屋根内部にわたす丸太材)、
蓋板(垂木の上に被せる板)、しっくい、垂木(たるき)の6層構造になっている。
屋根の内部にある木造構造物の積心木は下から見ると蓋板やしっくいに阻まれ、上からも屋根と補土に隠れて見えない。
パク教授は「消防隊員が見たという黄色や黒の煙は積心木が燃えて発生したものだ。
屋根内部が燃えていても外部からは炎が見えない」と説明した。
一般的に木が燃える際には白い煙が発生するが、泥で覆われている積心木は酸素不足で不完全燃焼を起こし、黄色い煙が出るという。

 韓国の伝統建築に詳しい高麗大の朱南哲(チュ・ナムチョル)名誉教授(建築工学)は「積心木に燃え移った火を消すためには、
屋根の最下部にある蓋板としっくい(厚さ計1センチ)を取り除き、放水する必要があった」と指摘した。
消防隊員はしっくいや瓦に隠れていた積心木の存在を知らず、初期消火に失敗したことになる。


◆瓦や補土の除去が必要だった

 文化財専門家は、1961−63年に崇礼門の補修工事を行った際に、瓦の下部にある補土に石灰成分を多く混ぜたという。泥に石灰を混ぜたのは、
外部からの水や湿気を遮断するのが狙いだった。
このため、消防隊員が外部から大量の放水を行っても内部では延焼が続いた。
専門家らは、崇礼門の屋根の火災を鎮圧するためには屋根上部の瓦と補土を取り除いた上で、放水を行わなければならなかったと指摘する。

◆文化財庁と消防の意思疎通に問題

 崇礼門が廃虚と化すまでの5時間17分、文化財の保存に責任を持つ文化財庁と消火任務を担う消防当局の意思疎通がうまくいかなかった。
誰が誰に連絡すべきか、責任者がいつ現場に到着するのかなどに関し、双方の足並みは乱れた。

 本紙が入手した消防当局の日誌によると、文化財庁(大田広域市)に崇礼門で火災が起きたと緊急連絡したのが10日午後8時56分。
文化財庁の担当者が火災現場に到着したのは午後10時4分だった。
火災現場で消防当局と文化財庁の連携が機能するまでに1時間以上かかった計算だ。
現場の消防隊員は、「崇礼門は文化財だったため、勝手な判断で消火作業を行うことができなかった」と話した。

 文化財庁は出火の初期段階で消防当局に「国宝第1号なので慎重に消火を進めてほしい」と要請した。
その後、火の勢いが強まっているとの報告を受け、文化財庁は出火後47分が経過した午後9時35分に
「破損しても構わないので、積極的な消火を行ってほしい」と消防当局に伝えた。
しかし、消防当局が屋根の一部を取り除く作業を始めたのは、それから2時間余りが経過した午後11時40分のことだった。

 韓国火災消防学会の孫鳳世(ソン・ボンセ)学会長(キョンウォン大消防防災学科教授)は、
「火災初期に文化財庁と消防が現場で図面や進入方式について直ちに情報交換と意思疎通を行っていたならば、
文化財を全焼させるまでの事態にはならなかったはずだ」と悔やんだ。



40分…
消防防災庁が「火を消すために崇礼門の一部を壊してもかまわない」という文化財庁の協力をもらうのにかかった時間。

消防署員らは火災の初期に「損傷を防ぐため慎重に火を消してくれ」という文化財庁の要請により40分間、水だけを放水する消極的な消火をしていた。
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全国民が見守る中、焼け落ちた南大門

 首都ソウルの中心部にある、国宝第1号の崇礼門(南大門)が一夜にして灰じんに帰してしまった。
壬辰倭乱(文禄・慶長の役)や丙子胡乱(清が李氏朝鮮に侵入し、朝鮮を制圧した戦い)、そして韓国戦争(朝鮮戦争)の戦禍をも免れ、
600年の歳月を耐え抜いてきたソウルの玄関が焼けぼっくいとなって崩れ落ちる様子に、国民はただ呆然とするばかりだった。

 民族の魂が込められた国の象徴とも言える崇礼門。その大門が5時間にもわたって燃えているのに、消防士330人、消防車95台は右往左往しているだけだった。
世界で10番目の経済大国を掲げるこの国が、実際にはどんなレベルにあるのかを思い知らされた事件だった。
譲寧大君(太宗の長男)が書いたという『崇礼門』の額が、マットレスの敷かれていない地面に落下して転がる様子に、
まるで自分が奈落に沈んでいくような気分になった人も少なくなかったことだろう。

 ソウル中央消防署に崇礼門から出火したとの通報があったのは10日の午後8時50分のことだった。
そして最初の消防隊が到着し、火を消し始めたのはそれから3分後の午後8時53分。放火時間は午後8時48分と推定されており、
これが正しいとすれば、放火からわずか5分後には消火活動を開始したことになる。
それなのになぜ、こんな最悪の事態となってしまったのだろうか。
現場は決して近付きにくい場所ではなく、また消防士の数が足りないわけでもなかった。
しかもその位置は、多くの人通りのあるソウルのど真ん中だった。

 消防当局は午後9時30分ごろに火の勢いがおとろえて煙しか見えなくなったため、鎮火したものと判断した。
ところが実際には楼閣の内部は燃え続けていたのだ。
消防士らは古い木造建築の複雑な内部構造に疎く、また屋根に防水機構が施されているために、放水しても水が中にまでは届かないことすら知らなかった。
午後10時40分になって再び炎が上がり始めたため、やっと瓦の屋根を分解して放水し始めたが、すでに手遅れだった。
全国民が祈るように見守る中、消防隊は火を消すどころか、むしろ「大火事」へと変えてしまい、国王第1号を灰にしてしまった。

 消防当局は、2005年に江原道襄陽郡の洛山寺を焼いた山火事や、2006年に京畿道水原華城の西将台が見舞われた放火事件があってから、
文化財の保護に関し憂慮する声が上がっていたにもかかわらず、上っ面の対策や、申し訳程度の形式的な訓練でお茶を濁してしまった。
ソウル中部消防署は崇礼門の内部に関する図面すら所有していなかった。
毎年行ってきた仮想訓練も、建物を見て回り、消火栓を点検するといった形式的なものにとどまっていた。
また崇礼門の防火体制は、手動式の消防車8台と上水道の消火栓というお粗末なものだった。
特に火災が起きやすい木造建築であるにもかかわらず、近年普及している火災報知機やスプリンクラーさえ備えていなかった。


日本では毎年1月26日を「文化財防火デー」に定め、各地方自治体が消防訓練や文化財を移動するための緊急避難訓練、消防設備の点検などが行われている。
これは、1949年1月26日に奈良にある法隆寺金堂の壁画が火災で失われ、続いて1950年7月2日には
京都の金閣寺が放火により焼失するという事件が起きた後、制定されたものだ。
「文化財を災害から守る」というスローガンのもとで行われる訓練では、各地域の消防士はもちろん、住民や寺社の関係者まで数百人が参加する。

 国宝第1号の管理を委任されていたソウル市は、2005年に「崇礼門を市民のもとに返す」
との名目で崇礼門の周辺を公園に変え、2006年には中央通路を一般に開放した。
そうして崇礼門は誰でも近付ける場所となり、鍾路区庁から平日は3人、休日は1人の職員が出向き、午前10時から午後8時まで現場を管理していた。
職員が帰宅する夜間は、無人警備業者の監視カメラと赤外線感知器だけが頼りだった。
市民に開放する以上、徹底した防災対策が必要だという認識もなかったということだ。

 文化財庁は出火から2時間後にやっと大田の文化財庁にある崇礼門の図面を持ち寄った。
また昨年5月に発行した「火災対応策マニュアル」には、文化財が出火した際の消火方法について具体的な内容は何ら示されていなかった。
韓国では2006年になってやっと124カ所の木造文化財に対する防災システムの構築が始まったが、
設置工事はまだ海印寺など4カ所でしか行われておらず、優先順位が48番目となっていた崇礼門の場合、いつ順番が回ってくるかも分からない状況だった。
そうした対応の遅れとは裏腹に、11日朝には見るも無残な崇礼門を覆う目隠しが設置され、すでに国民の目に触れさせないための工事が進められている。

 消防当局は「火災発生直後に文化財庁から『文化財が損傷しないよう、
慎重に消火作業を行ってほしい』と要請があり、作業を慎重に行いすぎた」と説明している。
それによると午後9時35分ごろになってやっと文化財庁から「鎮火を最優先するために崇礼門の
一部を解体してもよい」との連絡があったが、すでに火は手がつけられなくなっていたという。
これについて文化財庁は「消火作業は、現場の消火担当者が状況に基づいて判断し、
決定することになっている」とし、消防当局に責任があると主張している。

 文化財庁は「200億ウォン(約22億6000万円)の予算と2−3年の工期をかければ崇礼門を再建できる」と主張している。
これは文化や文化財の意味を無視した発言だ。朝鮮時代の1398年に造立され、1447年に修復されてから、
壬辰倭乱や丙子胡乱の戦火をくぐり抜け、韓国戦争の悲劇を見守ってきた韓国史の生き証人たる崇礼門は、もう帰ってこない。
同じ形や姿の崇礼門が再建されたとしても、それは21世紀の建築物に過ぎないのだ。

 国民が受けた心の傷も、そう簡単には癒えそうもない。多くの国民は、「国の顔」とも言える崇礼門が無残にも焼け落ちる様子を目にしながら、
経済大国に仲間入りしたかのようにおごり高ぶってきたこの国が、実際には砂上の楼閣に過ぎなかったのではないかと思い知らされた。
こうしたことが起きるようでは、ソウルに住む外国人たちも韓国という国に不安を抱くことだろう。



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今月10日に起きた放火事件で全焼した崇礼門(南大門)の再建には、どんな木材が使われるのだろうか。
焼け落ちた崇礼門に使われていた木材はすべて松だった。
1960年代初めに行われた補修工事の報告書によると、崇礼門の楼閣の柱の長さは最長2.98メートル、
直径は最大58.6センチほどだったという。この補修工事の際には、江原道三陟市一帯で切り出された金剛松を使用し、楼閣全体の10%程度の部材を交換した。

 江原道から慶尚北道にかけて生い茂っている金剛松は、材質が固く腐りにくい上、真っ直ぐに伸びる特徴があるため、王宮や宮殿を建てる際に使われてきた。
昨年行われた光化門の再建工事のため、江原道江陵市城山面で切り出された金剛松は樹齢150年程度で、直径は94センチだった。
光化門の再建工事では、江陵市・襄陽郡一帯の樹齢80‐250年、直径56‐94センチの金剛松26本が柱などの材料として使われた。
国立文化財研究所の金東賢(キム・ドンヒョン)元所長は「どんな木材を使うかについては、まだ具体的に話し合う状況ではないが、
江原道産のものが最も優れているというのは事実だ」と話している。
なお、2001年に行われた景福宮の再建では、慶尚北道蔚珍郡で切り出された金剛松が使われている。



南大門火災:「無用の長物」だった監視カメラ


今月10日に起きた放火事件で全焼した崇礼門(南大門)に設置されていた監視カメラが、無用の長物であったことが分かった。

 警察は11日、崇礼門の警備を担当しているKTテレコップ社が設置した監視カメラ4台の録画分について分析を行ったが、
放火されたことを示す証拠は見つからなかった、と発表した。
崇礼門周辺に設置された監視カメラ4台のうち、1台は門の裏側を、別の1台は内側を、残る2台は正面を映し出していた。
だが、放火犯人が上がっていったとみられる階段や、出火場所である楼閣の2階部分は映されておらず、
それほど重要でもない部分だけを監視していたことになる。
火災発生の3分前の10日夜8時47分ごろには、楼閣と門の裏側に設置されていた、外部からの侵入を知らせる赤外線センサーが作動したが、
監視カメラには人が侵入した様子はまったく映っていなかった。

 警察は警備会社の監視カメラだけでなく、近くのビルに設置されていた監視カメラもチェックしたが、11日現在、
これといった成果はなかったことが分かった。
近くのビルを含めると、全部で十数台の監視カメラが設置されていたが、決定的な証拠を掴むことはできなかった。




呉世勲(オ・セフン)ソウル市長は「ソウル市が歴史文化資源の保護と管理に
万全を期すことができなかった事実に責任を痛感する」と謝罪した。


祟礼門は日帝だから残した。そして韓国人が燃やした。
失われた文化は悲しい


南大門火災 再建





今月10日に起きた放火事件で全焼した国宝第1号の崇礼門(南大門)の再建工事は、今後どのように進められるのだろうか。
多くの専門家たちは「資料が保存されているため、原型に近い形で再建することが可能だ」と話している。
だが、文化財庁は「国宝としての地位はそのままにする」という方針を打ち出しているものの、たとえ原型に近い形で再建されたとしても、
国宝級の文化財としての価値はほとんどなくなってしまったため、国宝指定の解除は避けられないとみられる。

◆「2‐3年かけ再建、予算は約23億円」

 文化財庁は11日午前、崇礼門の前で文化財委員会の緊急会議を開き、「崇礼門の再建に関する基本方針」を発表したが、具体的な計画については打ち出せなかった。
基本方針ではまず、燃えずに残った部材をできるだけ再活用し、崇礼門をほぼ原型と同じ形で再建すること、
そのために文化財委員や消防関係の専門家などで構成する「復元諮問委員会」を設置すること、
また、残った部材の具体的な使用範囲については、現場の調査や諮問委員会での審議を経て、随時決定していくことが決まった。
同庁建築文化財課のキム・サング課長は「原型通りに再建するまでには概ね2‐3年、予算は200億ウォン(約22億6200万円)を要することになるとみられる」と話している。
同庁はまた、日本統治時代に改造された崇礼門の左右の城壁も原型通り復元する計画を打ち出しているという。
だが、基礎的な調査もまだ済んでいない状態で、どんぶり勘定で打ち出した方針と、
すでに2年前から計画があった城壁の復元を合体させたものに過ぎない、という批判の声も高まっている。



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李明博当選者、崇礼門を訪問

李明博(イ・ミョンバク)大統領当選者と大統領職引継ぎ委員たちが11日午前、ソウル崇礼門の火災現場を訪れ、
固い表情で鄭貞基(チョン・ジョンギ)ソウル消防災難本部長(右)から報告を受けている。


南大門 再建

李明博(イ・ミョンバク)次期大統領が「全焼した崇礼門(スンレムン)を国民の寄付で建て直そう」と提案した。

  李次期大統領は12日、大統領職引継ぎ委員会連席会議に出席し、「早期に崇礼門を復元し、国民の心情をなだめなければならない」
とし「復元費用は200億ウォン(約23億円)と推定されるが、(政府予算も可能だが)国民の寄付で復元するのどうか」と述べた。
その方法が国民をなだめ、大きな意味をもたらす、という趣旨だった。
李次期大統領は「海外の同胞団体も復元に参加したいという意向を伝えてきた」と付け加えた。

  これに対し、李慶淑(イ・キョンスク)引継ぎ委員長は「崇礼門は政府の崇礼門でなく国民の宝物」とし「国民一人ひとりの心で復元し、
希望につながるこうした提案は望ましいと思う」と賛同した。
李東官(イ・ドングァン)報道官は「新政府の発足後、国民募金運動を展開していく」と発表した。

  しかし李次期大統領の期待とは異なり、国民の反応は冷たい。 世論のバロメーターであるインターネットの民心がこれを代弁している。
インターネットポータル「ネイバー」の関連記事には非難のコメントが殺到した。
最初の500件のコメントのうち、‘国民寄付’提案に共感するという意見は4件にすぎなかった。

  ネチズンは「まずは事件の責任の所在を明確にすべきだ」と主張した。
火事発生から間もない今の時点で‘国民の寄付’云々するのは望ましくない、ということだ。
「自発的であるべき寄付を政府が強要することが不快」という意見も多かった。
あるネチズンは「海に油が流出しても国民が取り除き、銀行が経営不振に陥っても国民が負担してきた。
公務員の放漫で文化財を失っても国民が復旧するのか」と書き込んだ。

  ポータル「ダウム」の‘世論広場’でも、昨日までは募金の問い合わせが相次いでいたが、
状況は逆転し、「国民の寄付に反対」という意見が殺到している。
統合新党の禹相虎(ウ・サンホ)議員はこの日、「趣旨は十分に理解できるが、
自発的な募金はメディアや市民団体に任せておくのが望ましい」と述べた


国宝級の南大門がたった23億円くらいで再建できるのか?
ずいぶんと安い国宝だったのか?
600年以上の樹齢の材木が現在 朝鮮にあるのか?
世宗大王艦はいくらだった?それの3隻分くらい要るのでは?

疑問におもうが、、、



国民献金による崇礼門復元の提案に賛否両論




【ソウル13日聯合】国宝の崇礼門(南大門)に放火した容疑者が70代の高齢者と分かり市民はショックを受けているが、
国民の献金で崇礼門を復元しようという李明博(イ・ミョンバク)次期大統領の提案に対しては各界で反応が分かれている。
 あるインターネットユーザーは「国宝1号が失われたことに対する残念さと悲しみが真心ならば、李次期大統領だろうが何だろうが関係なく募金するだろう」と述べた。
しっかりとした管理施設と警備システムを備えていなかったことは誤りとはいえ、誰かのせいだと決め付けるのも適切ではなく、
税金でも強要でもない善心から献金をすればよいと賛成の意を示した。
独立有功者とその遺族で作られた団体、光復会が主管する仮称「崇礼門復元汎国民推進本部」に2000万円を献金した
在日本大韓民国民団(民団)の鄭進(チョン・ジン)団長は、「崇礼門火災のニュースを聞いて昨日日本から来た。
同胞として崇礼門復元の力になりたい」と積極的な態度を見せた。

 一方、ソウル大学人文学部の李泰鎮(イ・テジン)学部長は「国家の象徴物ともいえる崇礼門がずさんな文化財管理システムの中で消失したのに、
これを国民の募金で復旧するということは責任回避」と批判する姿勢だ。
まず、現大統領が謝罪すべきで、その後に次期大統領が自分の任期中に国家首班としてどのように対応すべきかを示すのが順序で、
国民に頼るよりも国の管理システムを整備する契機にすべきと強調した。
文化運動団体の文化連帯・文化遺産委員会のファン・ピョンウ委員長は、李次期大統領がソウル市長時代に崇礼門広場を作り、
徳寿宮の守門将(宮殿などの門を守る武官)交代式行列を崇礼門まで行進させるために予算を8億ウォンから30億ウォン程度に増やしたが、
安全整備や保護に対する予算は増やさなかったと指摘した。
管理ミスによる負担を国民に転嫁してはならないと献金に反対の考えを表している。



「崇礼門が復元されたら…」



文化財委「国宝第1号は維持」

火災で全焼した崇礼門(スンレムン、南大門)復元のための復元構想図が公開された。

ソウル市と文化財庁は日帝強占期に消えた崇礼門両側の城壁を今回同時に修復するという詳細案を論議していると13日、明らかにした。
また市と文化財庁は本来より1.5メートルほど上がった地表も原状に回復させると説明した。

これに先立ち12日、アン・フィジュン文化財委員会委員長は「崇礼門の“国宝第1号”は維持することにした」と明らかにした。

アン委員長は「文化財委員会史蹟・建築分科合同会議の結果、満場一致でこのように決まった」とし「崇礼門を国宝第1号に
指定した当時の状況を念頭に置いたわけではなく、歴史的意味など複合的要素を勘案して決めた」と説明した。












これ以上に復元できるのか?  2,30億じゃないと思う。
写真を見ても国宝の目前に駐車している。いかにも国宝が無防備だと思えるが、、




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南大門 再建

【写真】あれから1カ月…幕の後ろの崇礼門




  崇礼門(スンレムン、南大門)の火災からひと月がたった。まだ多くの市民は2月10日の夜、火の手に包まれ崩壊した崇礼門の姿を鮮明に記憶している。
崇礼門を訪れて涙を流す市民が後を絶たないが、国宝第1号が何かも分からない子供たちまで復元現場を訪れて哀悼の文を書いている。
9日、復元作業が進行中の崇礼門に雨が降る日などに備えた工事が行われた。


南大門再建されているようですね。
それにしても、文化財の考え方は違うのですね。
全部新しい材木で、建てているのでしょうか。

関わっちゃダメです

本田技研の創業者、本田宗一郎氏 もそう言ってます。

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李明博次期大統領が、南大門再建費用は寄付で賄うと発言し、物議を醸しています。
李氏が京城市長時代に南大門を開放して誰でも入れるようにしました。
しかし、防火設備は強化されませんでした。その責任が李氏にはあると論評されています。
 ホームレスが増えれば、暖をとるために火も使うでしょうし、盗電するなら漏電などの危険も出てきます。
 後知恵ではありますが、開放は単なる人気取りが目的のように感じます。

(朝鮮日報より)
 放火事件が起きた崇礼門(南大門)では、数年前からホームレスが夜間に楼閣へ上がって寝たり、ラーメンを作って食べたり、酒を飲んだりしていたという。
ソウル駅やその周辺に集まるホームレスたちは口々に「崇礼門を根城にしている人は少なくとも5−6人いた」、
「寒いときは空き缶をランプ代わりに暖を取って寝る人もいた」、
「1週間前に行ったときにも、十数人が集まって焼酎を飲んでいた」、
「夏には風通しのよい楼閣に30人程度が集まっていた。
排せつ物のにおいが充満し、焼酎やどぶろくの空き瓶、菓子袋などが散乱していた」と証言している。

 こうした内容を聞く限り、崇礼門はすでにずいぶん前から国の保護を受ける国宝としての扱いを受けていなかったようだ。
ホームレスたちは工事現場から盗んできたはしご2本を監視カメラに写らない崇礼門の側面に建てかけ、出入りしていたという。

 ホームレスらの証言によると、赤外線感知器の警報を受けた警備会社の職員らに追い出されることもあったが、
深夜になると見逃してくれたり、現場に出てこなかったりしたという。

 崇礼門を管理する中区庁は2005年に月12万ウォン(約1万3600円)という契約で崇礼門の警備を業者に依頼した。
月12万ウォンとは、一般住宅向けのサービスと同等の額だ。
国宝第1号の夜間警備が無人警備システム頼みだったというのも驚きだが、
さらに一般家庭の契約料と同じ程度の費用で解決しようとしていたというのだから、呆れてしまう。

 契約から2カ月後には、崇礼門にホームレスをはじめとする侵入者が予想以上に多いことから、
警備会社が契約料を月額30万ウォン(約3万4100円)に引き上げてほしいと申し出て、
契約内容が変更されている。管轄局はその時点で問題点を認識すべきだったが、
昨年2月からは広告効果を狙って無料での警備を申し出た別の企業に、担当を切り替えてしまったという。

 11日に逮捕された放火犯は2年前にも昌慶宮の文政殿に放火し、執行猶予判決を受けたが、
その後も火を付ける文化財を物色していたという。
放火犯は当初宗廟に目をつけていたが、夜間の出入りが難しいため「最終的に警備が手薄で、
入り込みやすい崇礼門を選んだ」と供述している。
つまり崇礼門の惨事は、起きるべくして起きたものだった。
穴だらけの行政システムが、崇礼門を火だるまにさせてしまったのだ。